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ケモノの子

[監督] 細田 守

[制作] スタジオ地図

[出演] 役所広司、宮崎あおい、染谷将太

     広瀬すず、リリー・フランキー

     大泉 洋 ほか

H27

8/19

[WED]

 

 あまりアニメや漫画には近接しないように生きてきたため、どうしても演技している「ナマモノ」の表情が見えないアニメーション映画には抵抗があった。勿論、幼少の時分は「夏はポケモン」の字の通りに、映画館に足を運んでいたし、『ポケモン』や『あたしンち』、『コロッケ!』といった漫画で育ってきた部分も多分にある。

 

 しかし、そうした漫画やアニメを置き去りにしたまま年月は過ぎ、社会を取り巻くアニメ文化は見事に幅を広げ多様化。アニメ事情に今度は置き去りに「される」側となってしまっていた。また、歳を経るごとに、蓄積する筈の情報量は零れ落ちやすくなり、新しいことから記憶は蒸発していくことによって、「一話完結」ものではないアニメや漫画はまったく受け付けなくなった。大衆的には「娯楽」であっても、僕にとってはちょうど裏かえしたように「苦行」となっていたのである。

 

 もっとも、そうさせた明確な原因の一つは、ちゃんと覚えている。小学校高学年、「オジサン」キャラが思いの外、学級で普及し、それに応えていくことが僕のささやかな使命として降臨したいたからだ。いつしか「オジサン」は染み付き、キャラは上辺の糊塗されたものから、激湍の如く黒歴史が流れ去り、本物の「オジサン」が内部を占めるようになってしまったのである。と、そんな詰まらない私事はここまで。何はともかく、どこから、どの具合で入り込めば良いのか加減を見失っていたアニメーション映画。今回は、新聞会役員に推薦されて、『バケモノの子』を観に行った。

 

 

 

 出逢いというものは、そのすべてが美しく優しいものではなく、ときに試練や辛苦を背負わせることもある。出逢いの果てに、誰かに支配されながら生きていくのか。それとも、誰かを背景としながら生きていくのか。九太/蓮は、出逢いによって、自らの意思を確立していく。

 

 あるとき、九太/蓮は熊徹の強さに焦がれて、その所作を真似はじめる。かの山本五十六が、尊敬する河井継之助の生き方を模倣したように、人が憧れをなぞるのはよくある話で、それは「学ぶ」という言葉の語源からしても明らかだ。
 所作を真似る以前は、熊徹の不細工で捨鉢な教えを受けていた九太/蓮。その間は、両者の「強さ」には逕庭が横たわっていた。しかし、先述した見様見真似を重ねることで、その隔たりが小さくなっていく。


 こうして、多くの見様見真似・なりきりが集積し、九太/蓮の中で消化され混成することで、更に「九太/蓮」が出来上がっていく、「自分」になっていく姿が描かれている。その間に涵養していったのは、身体的な強さだけではなかったのは物語の通り。

 高校生となった九太/蓮は、人間世界でヒロイン・楓の教授を借りて、勉学への励みも見せる。バケモノの世界で暮らしていた反発から、人間世界で多くの刺激を受ける九太/蓮。これも「出逢い」が織り成す成長の姿である。

 

 

 物語では、九太/蓮は大きな試練に立ち向かう。

 月並みな表現で嫌らしいが、そのときは既に「孤独/独り」ではなく、人生に様々な形で寄与したように、精神的にも多くの人とバケモノが寄り添っていた。

 

 

 僭越ながらも、僕が物語から見出したのは、信じるものを見つけていくことこそが「強さ」であるということだ。多くの人/バケモノを背景として、多くの交わりを輪郭として、「強さ」が育まれていった。
 詰まるところ、大きくなる/成長するということは、それだけ自分の周囲が膨らむことで、果実がもたらされるということだ。
その場に居合わせている周囲だけでなく、それまでの人生で寄り添った多くの交わりが、そのときの「自分」をつくっている。


 そうした、多くの出逢いの堆積こそが、人間の「強さ」であり、その人間の現今での「完成」でもあり、将来から見たときの「通過点/未完」なのである。

 

 渋谷も、物語の最後の広場も、人/バケモノでごった返している。しかし、最後が渋谷の風景と明らかに違うのは、その周囲が「他人」ではないということだ。それだけ人生歩んできましたということを、快濶な景色とともに眺めさせる、そんな優しい作品。

 

 

平成27年8月19日

長崎県立大学新聞会

会長  新井 輝

 一言でいえば、一人の少年の成長の物語。

 

 舞台となっているのは、東京は渋谷。幅広い世代でごった返す、日本の中心だ。

 この過密地帯をよく覗いてみると、実はたくさんの「孤独」で溢れかえっているのかもしれない。大都会の群衆は、まさに「押し寄せて流される 冷たそうな人の海」(山下達郎『いつか』 作詞:吉田美奈子)という表現が、言い得て妙である。

 多くの「他人」の間を掻い潜って、目指す場所もなく彷徨う少年。背の低い視点を、大人たちの歩みが擦過する。

 まさに、乗り手を待つ自転車が跋扈する「渋谷駅南口」そのもののように、少年の心は暗がりを見せていた。

 

 この後、熊徹という「バケモノ」との出逢いによって、「孤独/独り」であった少年・九太/蓮が、成長していく物語だ。

JR渋谷駅・南口。孤独に沈んでいた九太は、ここで「バケモノ」との出逢いを果たす。

(平成27年8月19日 新井撮影)

都会と群衆の中に、鏤められている多くの「孤独」

くの「見様見真似」を集めて、「自分」を歩んでいく

じるものの数だけ「強さ」として寄り添っていく

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