■総務会主催 特別講座
平成26年10月5日(日) 13時 長崎県立大学605教室
■新井 輝 新聞会会長
「文章の書き方 ニュースの見方 ~文章の書き方~」
配布資料はこちら(PDFファイル)から参照できます
■語彙力 * * * * * * *
文章は書き手がいれば、それ以上に読み手が存在するものです。そのため、通り一遍の文章表現ばかりを並べていては、読み手に退屈感を与えてしまうことになってしまいます。それを防ぐには、日頃から語彙力を太らせるしかありません。
「自分から積極的に言葉に飛び込めば、多くのコスチューム(表現技法)が身についてくる」
たとえば「(~が)大切である」という表現も、これと類似する表現には「(~が)重要である」「(~が)肝心である」「(~が)要となる」「(~の)試金石となる」「(~を)無下にしてはならない」「(~の)真価が問われる」……と数多く存在するわけです。これらは、一つの同じ範疇に収まっている表現。このようにして使う表現を変容すれば、それだけ文章に幅が出てくることは言うまでもないでしょう。
語彙力が貧しいと、それだけ表現出来ることも少なくなります。他方で極論を押し通す形にはなりますが、語彙力が豊富であれば、それだけ表現したいことに近づく言葉を引き出すことができます。そういった観点からも、語彙力の向上は、文章の書き手に取って必要不可欠な課題となるでしょう。
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具体的にどのようにして語彙力を伸ばしていくのか。個人的にオススメは2通りあります。
1つは、やはり「言葉に触れる」ということ。
だいぶ抽象的な表現にはなりましたが、スタートは多くの言葉に慣れ親しむしかありません。たとえば、難しい本でもいいでしょう、適当な教授の論文でもいいでしょう。それらは、言葉の宝庫。普段は散見することのない、見慣れない「言葉」が鏤められているわけであります。文章の意味や内容の理解は背景化することとして、自分の知らない言葉をどんどんメモしていく。それをしっかり辞書を引いて調べて、時間をかけて慣れていって、自分の「言葉」にしていく方法です。
2つ目は、やはり類語辞典の活用。
一つ表現があれば、それに類似する表現はまだまだあります。それらを残さず取りこぼさないように、類語辞典を引いていく。語彙力の充実にも繋がるどころか、表現技法に幅を発生させることもできます。同じ意味の内容を文章化させるにしても、表現を変えればいつもと違ったコスチュームを文章にまとわすことができるわけですね。自分の今の表現技法に寄り掛かることなく、自分がいつも表現していない技法を学んで、表現の幅を膨らませていただきたい。やはり、常に自分の表現に類似する言葉を連想していくこと、調べていくことが肝要です。
■表現技法 * * * * * * * * * * * * * * * *
「文章は、生き物。表現技法の教科書は、これまでの人生に落ちている」
文章というのは不思議なもので、個々人の性格を如実に表す(著す)ことが出来得ます。
それは、ちょうど人生の蓄積が知識や知恵の蓄積であると同じように、これまでの人生でなぞってきた言葉や知識を発露する行為こそ「文章を書く」ということであるからでしょう。
たとえば、好きなミュージシャンでも、好きなタレントでもいいです。僕らは、彼らが使っている表現技法に、気付かない内に影響されていることが多々あるわけです。そういった観点からも、自分を表現するための「教科書」や「参考書」は、実は辺り一面に落ちていて、既に手元にもあるに違いありません。
勿論、一つの表現技法を盗むだけでは、それは盗みでしかないのかもしれません。
しかし、多くの人の表現技法を盗み、吸収し、混合させた表現技法は、自分の人生の産物に違いありません。
ここで、面白い話を。
昨年末に亡くなられたミュージシャン・大瀧詠一さんに関する興味深いエピソード。ある日、「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」ととがめられた大瀧さん。すると大瀧さんは「その3つと、あと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と返して、逆に相手を責める格好になったとのことです。
多くの表現技法を研究して、それらを自分のものとして蓄えていったものは、その人の人生の蓄積ですからね。
かと言って、文章を書く際に、無理に難しい言葉をねじ込む必要はありません。
それは見方によっては、言葉の乱用にもなってしまいますから。理解しはじめた言葉を「試用」することは大いに構いませんが、乱用は避けるべきです。とりわけ、難しい言葉を活用することで享楽を覚えている様では、「言葉に使われている」と言われても仕方ありませんからね。
求められるべきは、語彙力を身につけた上で、「難しい」よりも「分かり易い」言葉を繋げる作業です。
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文章/言葉は生き物です。
自分でしたためた文章は、自分が思い悩み、悶え、必死に産んだ、他ならぬ我が子です。
だからこそ、ときに何気ない文章であっても、喜びや感動、そして怒りや哀しみを呼び起こすことがあるわけです。それは文章に心があるから、文章が生き物であるから。
特筆すべきは、文章があまねく感情を呼び覚ますと同時に、一方では多くの感情に寄り添うことができるという、多くの可能性を孕んだ行為でもあるということです。
哀しさ、物足りなさ、切なさ、寂しさ、侘しさ、しがなさ、虚しさ……そういったものに言葉は、ときには寄り添い、こうした嫌な感情に霞みを掛けてくれる筈です。
言葉は人生を着飾ってくれます。心に彩りをつけてくれます。それは決して、偉い人や頭のいい人たちの特権ではありません。我々にもできることです。
文章や言葉によって、自分を表現する。これこそ自らの人生の質を豊かにする手段ではないでしょうか。
会内勉強会
余力会
■後期予定
「『女子高生の裏社会』を読んで」
講師 新井 輝 新聞会会長
「日本スポーツ界大改革の年に」
講師 沖田 正彦 新聞会会長代行
「体罰二つの真実」
講師 樋口健太郎 新聞会総務会長
「オタクはすでに死んでいる」
講師 山下潤一郎 新聞会編集局長