長崎県立大学新聞会
SPECIAL REPORT
SPECIAL REPORT
明日、
あなたのセクシュアリティが変わらない保証は、
どこにもないのだから。
同性愛だって、
異性愛と同じように「特別」ではない
「一つの恋愛」であるという
「普通」に気付いてほしい。
新聞会研修会3日目の9月30日。
「新聞会オネェ班」の姿は、ネオンが心地を惑わすオネェの聖地・新宿二丁目にあった。
皆さんには釈迦に説法、孔子に論語、童貞にバイアグラとなるが、「新聞会オネェ班」とは、加藤、平田、そして班の重鎮(実は鴻毛より軽い……?)である私・新井のダイバーシティを目指す3人のことを指す。
■ □ ■
訪れたお店は、観光向けとしても人気の高い「オネェスターズ」さん。
新井は一度訪れたことがあるが、加藤と平田の2人は、そもそも「オネェバー童貞」という、これまで機会に恵まれなかった側の人間だ。
そんな2人が
「新井さん、オネェバー連れて行ってください!」
「新井さん、池袋(オナクラ)ばっか行かないで、たまには二丁目よ!」
「もう、新井さん、最近ご無沙汰なんじゃないの? お冠なんだからね!」
「私たち、オネェになりたいっす、あたい、オネェになりたいっす」……
という、ややスベった思いを爆発させているかのような表情をぶつけてきたので、勝手に思い(新井の妄想上)を忖度して、道楽の一つとして、連行することに至った。
新聞会×オネェバー
新聞会オネェ班
一行が、雑居ビルの2階へ上がる玉響、スキンヘッドの強面の男性と出会す。
あまりのいかつさに、尿意が氾濫してしまうほど慄いてしまったが、ここで帰ってしまってはオネェじゃない!!! そもそも、オネェではない3人(の筈!)だが、意を決して、勇気の鈴をりんりんりん、重い扉をこじ開けた!
その扉を開けることは、同時に自分の中にある未知の扉を開ける可能性があることは分かっていた。
それでも、オネェへの扉を、僕らの扉の将来を信じて、そっと、こっそり、息を呑み過ぎて窒息するかとも思ったが、牛のように反芻させて進んでみせた……。
いざ「▼とびらのしまる おとがした!」を実感すると、どこのカントー地方の四天王戦だろうと勘違いして、思わずチビりそうになるので、そっと膀胱(のあたり)を撫でてあげる。
というのも、ちょうど、チビる寸前のところで、オネェの皆さんが優しく受け容れてくれたのだ。
なななんんと! さっきのスキンヘッドの男性も、実はスタッフの一人という優しいドラマを浴びた3人。チビりそうだった心地は、覗いても見えないくらいに収まってしまった。ギャップが織り成す安心感は最高で、見てください、このファンタスティックなボディ!
■ □ ■
オネェの皆さんは、男も女も、酸いも甘いも経験しているからこそ、厳しい口調の中にある優しさが洗練されている。その優しさに沈潜するようにして、僕ら3人の心も……、気がつけば身体も軽くなっていた。
乳首を摘ままれ、本気で痛がる加藤!
衣服を交換させられ、煮卵を口移しされる平田!
半裸の状態で、最後はディープキスを交わすこととなった新井!
いつしか、僕ら3人は、身ぐるみどころか、心のプライドというコスチュームも上手に剝がされ、自分自身の未知を曝け出していたのかもしれない。
「堪えた涙の分だけ 飲み干すグラスの 悲しさよ」の一節を脳裏に、3人はおもいで酒に酔い痴れた……、あの人、どうしているかしら……。
抱かれ、摘ままれ、脱がされた
「オネェ」というと、どこか変な笑いの対象となり、窮屈なアンダーグラウンドへ追いやられてしまう風潮があるが、恋愛を性別や年齢といったもので規制してしまうことは、潜在する可能性や楽しみを無視してしまうことと変わらない。
セクシャリティに画一などないのだから、そこに優越や卑下が生まれた瞬間に、愛の可能性は盗まれてしまう。
LGBTに対するマインドは少しずつ動きつつあるものの、政策や論争の段階では、当事者の人たちにとって見れば空中戦という印象は拭えない。政策が敷き詰められたところで、そこを歩んでいく一人一人の歩き方/マインドの問題だ。
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LGBTを、どこか変わったものとして捉えるのではなく、「誰かが誰かを思い合うこと」の一つであると考えていかなければいかない。
米大統領を退任したオバマ氏は、その在任中に「ゲイの兄弟姉妹が法の下で平等に扱われるまで、我々の旅は終わらない」と演説したが、まだまだ旅は途上にしかない。
国内では、同性愛を論じるときに、右派の一部から「伝統的な家族制度の崩壊が懸念される」との意見が聞かれるが、現在の家族制度自体、歴史の浅いものだ。
もっとも、日本において性の多様性を悪習として扱われ始めたのは、男色を認めないという西洋文明の偏った性科学が浸透された大正の頃であり、こちらも歴史は浅く、本来の日本の在り方と考えてしまうのは早計だ。
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あなたのセクシュアリティが変わらない保証はない。
明日になれば、自分がゲイやレズビアンになっている可能性だってある。
必要なことは、自分自身は同性婚という選択を人生で採ることがないにしても、同性婚の制度を求める人々を否定することは別問題であるという認識だ。
自分はその選択をしないにしても、選択肢として人々に担保されている、そんな多様性が尖らない形で受け容れられる社会に近づけていかなければならない。
「カミングアウトが自由に行える社会」を目指すべきなのか、「カミングアウトすることすら必要のない社会」を目指すべきなのか。
多様性を目指していく社会の選択肢そのものにも、多様性があることを認識し、一つの考えに沈殿して、進むべき社会を安易に決めつけてはいけない。「新井」という家に生まれたからという因縁ではないが、互いに体温を受け取り合える「アライ」でありたいと思うばかりだ。
私のスマホカバーには、今もともちんさん(オネェスターズ・スタッフ)のポラロイドが眠っているが、自由に生きよう/生きたいとする人々を眠らせる社会にしてはいけない。
セクシャリティに画一はない