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東京・鎌倉研修会 2015

4日間の「非日常」を過ごし、

人生に将来を導く。

鎌 

お気に入りの風景を探す旅。

about鎌倉

古の風吹く杜

武家の古都

浪漫の舞台

宗教都市

観光都市・鎌倉、人いきれを小路からの海風が通る。

ホテル・ニューカマクラ カフェ坂の下

御霊神社 力餅屋 由比ガ浜……

ごった返す観光客、鎌倉の代名詞「江ノ電」も乗車規制がかかり40分待ち。

遊園地のアトラクションも顔負け。

 

御成通り、若宮大路、

そして由比ケ浜を弓形になぞって、長谷へ向かう。

海岸に平行に、海浜公園の中、「タンコロ」が佇む。

馥郁たる木の香りに、鎌倉が紡いできた浪漫の舞台を味わう。

江戸時代、当時も観光地であった江ノ島。

現在の鎌倉駅と江ノ島との間にある長谷は、ちょうど宿場町だ。

この鎌倉界隈が観光地として浮かぶのは、水戸光圀によるとも。

 

武家の古都から、歴史の深い色を感じるが、観光地としての歴史は浅い。

鶴岡八幡宮の権禰宜さんが言う。

鎌倉は〝観光都市〟ではなく〝宗教都市〟」と。

武家政治の幕開けと、

武家社会と大衆との両方に寄り添った鎌倉仏教の台頭とが、

鎌倉の区画整理を誘発してきた。それこそが、本当の「鎌倉」の姿である。

 

2日目。イワタコーヒー 報国寺 高徳院。

報国寺の竹林で、あらゆる「生」を気遣いながら、修行や宗教、そして人生が涵養されていく環境を思う。

それは、ちょうどこの竹のように、区切り/ステージ/時代を整理させながら、

」と「」を上手に扱って、「自分」を育てていくことだ。

 

寺院・仏閣の教えではないが、『菜根譚』にはこうある。

心は虚ならざるべからず 虚なれば則ち義理来たり居る

   心は実ならざるべからず 実ならば則ち物欲は入らず

心は空虚にしておかなければならない。空虚にしておけば、正しい義理が来たり宿る。

 また、心は充実させておかなければならない。充実させておけば、物欲は入ってこない

 

この竹林の清浄を思い出して、将来に渡って清談に耽ろう。

それが人生の伸びしろになる。

東 

ボクらと同じ年齢の人間も、

」を犠牲に戦った。

不毛なイデオロギー

    追放する旅。    

about東京

強くて鋭い詩を放った女性がいる。僕の大好きな茨木のり子さんだ。

「戦争」と「青春」とを掛け合わせてしまうとき、いつも思い出すのは彼女の詩だ。

「青春」が「戦争」という時代と重複してしまった人がいるのだ。

彼女の詩の萌芽は、そうした背景を基とした自分への厳しさだが、

多くの不条理な人生の終焉に触れてみると、ボクらでも誘発される。

 

東京は九段下の「靖國神社」。いつ訪れても暑い景色が待っている。

近年、イデオロギーや政治的立場の「しるし」としても利用されてしまっているのは残念。

靖國神社の禰宜さんは、次のように嘆く。

「好むと好まざるにかかわらず、自分たちの都合のよい材料として使われている」

「日本人の静かな感性の中で讃えたいので、口惜しい思い」

 

靖國神社から少し離れたところにあるのが「千鳥ケ淵戦没者墓苑」だ。

皇居のすぐそば、風の通りが心地良い。

こちらは、環境省所管で、軍属に限らず、引き取り手のなかった一般邦人の遺骨が埋葬されている。

 

一つの面、一つの考えやイデオロギーに沈殿してしまってはいけない。

そういう思いから、今回訪れた二つの施設。

宗教や歴史認識といった「空中戦」に拘泥していては、戦没者に失礼だ。

 

誤解が怖いので、改めて記すと、戦争を美化するつもりは毛頭ない。

ボクらが吸収するのは、数多くの「事実」だ。脚色や傾斜、編集はいらない。

それは、家族の物語でもあり、恋人や友人同士の物語でもあり、

この今と地続きにある70年前に繰り広げられた、多くの方々の「人生」だ。

 

それを、右や左といった座標軸を持ち出して、

自分の都合の良い大義名分(かいしゃく)として扱っては、自分の人生が劣化する。

 

只今ばかり 我が生命は存するなりとは道元禅師。

この一瞬一瞬の積み重なりが、振り返ったときの人生だ。

 

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

茨木のり子さんの詩が、また新たな息吹を伴って、ボクらの心に宿っていく。

ボクらも「えんぴつ部隊」となって、いつまでも「人生」を書き連ねていこう。

役員レポート
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